汪の話
「そう不貞腐れた顔をするなよ。人間だって捨てたもんじゃないさ」
そう言って、俺の背中を叩いた人間に、俺は自分も人間のふりをして微笑んだ。
「有難う」
何も有難みのない言葉だった。人間が捨てたものではないのは当たり前だ。何故なら、人間は我が物顔でこの星を歩く権利を与えられているではないか。まるでこの星そのものが自分たちのもののように思っているではないか。
汪の有難みも何もない言葉を受けて先方は満足したのか、さも自分は良いことをしたのだと胸を張って歩いて行く。そんな背中を見ながら、汪はほっと溜息を吐いた。
あまり触られるのは好きではない。汪は人間とは少し違う生き物だからである。
触られていると、いつバレやしないかとそわそわする。そのそわそわという感覚は、汪の身体から人間に擬態するための皮を浮かせていくような感覚がするのだ。だから、汪はいつも落ち着いていたいと常日頃から思っている。
汪が星の上に生まれたのは、もう二千年も前のことだった。今のこの星の上に、汪よりも長寿の者はいない。一緒に送られてきた者たちも、やがて人間と区分できなくなり、しまいにはもうどちらとも言えない者になってしまった。
「汪」
カラスが鳴いた。汪は顔を上げて頷く。
カラスというのは元は白かったのだそうだ。その頃は平然と人語を話していたのものだが、今はもう人前では「カァ」だとか「アァ」だとかしか言わなくなってしまった。それは、カラスが人間に嘘を吐かれたことで、何千年も先代のカラスが人間との接触を絶ったのだと言う。
実際、こいつらのいうことはどこまで本当で、どこまで嘘なのかわからない。汪は、常日頃からそう思っている。カラスは汪に慣れ慣れしく接してくるが、汪は決して奴らに心を開いていない。
「どうかしたか、シャン」
けれど、このカラスだけは違った。
「何をしているのかと思った」
シャンというこのカラス、見目ただのカラスにしか見えないのだが、どうやら汪と共に送られてきた者の一人のようだ。辛うじてだが、汪にはわかったし、彼女にも勿論わかっているようだった。
「今は、学生を」
汪は手を広げて、中指の節にある傷を眺め言った。
「シャンは、何を」
「見ての通りのカラスよ」
ばさばさと羽を広げ、くちばしでつくろう。そんなただの鳥の仕草に、汪は静かに溜息を吐いた。
「星の使徒も、もう底を尽いたか」
「恐らくね。私も、もう一度生まれる時は、もうただの捕食者に違いないわ」
「だから、人間などに触れるなと言ったのに」
「汪にはわからないわよ」
そんな言われ方をして、汪は素直に傷付いた。しかし、ただ口を尖らせるに留まった。
バカにされているのは自分ではない。汪が入っている器に過ぎない。汪はそうすることで、いつでも星の使徒であり続けている。
使徒の言う捕食者とは、星を喰い荒す存在のことだ。彼らにとって、人間はその枠の第一種であった。
「使徒が人間を食む予定が、今ではその間逆。我々も残るは一人か」
「汪」
「なんだ」
「あまり、自分を追い込むのはおよしなさい。良いのよ、良いの。きっと捕食者になっても仕方のないことなのよ。だから最後の使徒だからって、自分を追いこんで、まさか一人きりで捕食者を食むなんてことは……」
シャンの言葉に、汪は首を横に振った。
「まさか、そんなことできるはずがない」
黒い瞳が、黒いカラスを睨み付ける。
「しかし、我々は絶対に捕食者にはならない。もし、これより百万回死んで生きたとしても、吾は絶対に」
言葉にはしなかった。言葉にする前に、シャンが飛び立ってしまったからだった。
だから汪は、残った言葉を自分の口の中で咀嚼する。
「捕食者に惹かれるなど、愚だ」
星の使徒は、星にのみ惹かれていればいい。そんなことが何故わからないのか。汪は、消えて行った使徒たちに吐き捨てた。
汪たちは星の守護者が作り出した存在なのだと言う。何故伝承の形をしているかと言えば、それは使徒に知らされていないからだ。
ただ、使徒は無造作に星の捕食者の中に生まれた。
彼らは、星の声を聴くことができた。そして、互いに言葉ではないものを交わすことができた。それはもう過去の事実である。
何故なら、ついに星の上に使徒は汪だけになってしまったからだ。
存在したはずの多くの使徒は、捕食者と心を共有し、やがて、使徒としての力を失ってしまった。
今し方話をしていたシャンとて、もうただのカラスになってしまったかもしれない。
汪はそんなことを考えながら、黒い羽がはばたく様を見送った。
「……星の声は、もう吾にも聞こえない」
以前は、星の声が聞こえた。そして、星の守護者の命令も、頭の中に耳鳴りのように響いてきたものだが、それももう聞こえなくなってしまった。
彼らの声を失えば、使徒としての役割は最早存在しないのかもしれない。けれど汪は諦めきれずにいた。最早何年もこうして一人で生きている。それに飽きているとは言わない。けれど、仲間のない孤独にはもううんざりだった。汪は、自分が孤独だと思ったことなどない。
しかし、去っていく仲間たちは次々に汪に罵声を浴びせた。「お前は孤独だ」、あるいは「どうしてそのまま生きられるのか」と。
汪は、その度噛み締めた。彼らは星の上に下りた瞬間、捕食者共の毒に犯されたのだ。
「紫眩(しくらめ)」
はっと顔を上げた。汪は、机の上に伏せって眠っていた。
今までのやりとりは、シェンの声はなんだったのだろうと目を擦る。気付けば。目の前には仏頂面の教師が立っていた。
「紫眩。次、読みなさい」
自分が敷いて眠っていた教科書を見る。現代国語の時間だったかと思い、涎がついている教科書を袖で少し拭った。しかし、今までどこが読まれていたのか、汪にはもう見当もつかなかった。
汪は後頭部をがりがりと掻いて、それからへらりと笑った。
「わかりませーん」
すると、どっと教室が湧いた。
今は、そんな役回りをしている。汪は高校生になっていた。授業中は惰眠を貪り、休み時間には友人たちを連れて他愛のない話をする。どこにでもいるような高校生の役回りを与えられていた。
相変わらず、汪は汪だった。他の生徒に興味も持たず、そして、教師にも親と呼べる存在にも興味はなかった。与えられた役割をこなす。そして星の声を待っている。それが汪の役目だった。
けれど、それは誰に指示されたものでもない。ただ、汪が自分に課しているに過ぎない役割だった。
声など、もう二巡の間聞いていない。
(……最早、俺も使徒ではないのか。あるいは……)
守護神か星か、どちらかが力を失ったのだろう。
こうして星は食われていく。だから汪たちは人間を捕食者と呼んだ。シェンに会ったのは、もう一巡前のことだ。あの時も学生をしていたが、あれとはまた違う。
あの頃は、どうしたのだっけかと思い出す。汪は、駅のホームで突き飛ばされ、線路に落下し、死んだ。電車には轢かれなかった。けれど、ショックから心肺が停止し、死亡と確認されたのだ。
「紫眩」
そんな汪を呼ぶ声がする。顔を上げると、そこには汪の身体よりも一回り大きな体格の生徒がいた。
「なに」
汪に話し掛けてくることはあまりない生徒との接触に、汪は少し挙動不審になる。
「消しゴム、さっき起きた時落としてただろ」
そう言って、その生徒は汪の机に消しゴムを投げた。サイコロのように転がる消しゴムを追い掛けて汪がそれを握ると、生徒はふっと笑った。
「お前でも真面目な顔するんだな」
バカにするなと思った。けれど、人前であまり真剣な(汪にすれば、それは無表情なのだが)顔をしたことがないと思い返し、この生徒が知らないのも無理はないと思った。
何故なら、彼は使徒ではないのだ。
「俺だって、真面目に考え事くらいするって……」
おどけたふりで言う。すると、生徒は「そうか」とだけ頷いて、教室の外に出て行ってしまった。そう言えば、彼は部活動に打ち込んでいたのではなかったか。何度か表彰される姿を確認したことがある。
「……確か、早苗と言ったか」
しかし、そんなことは汪には関係なかった。
そんなある日、高校生の汪の元に、ようやく待ち焦がれていた声が聞こえた。
けれど、それは慣れ親しんだ星の声でも、守護神の声でもなかった。しかし、間違いない。それは汪の待っていた声だった。それだけは間違いがなかったのだ。
でなければ、こんなテレパシーのような手段で連絡を試みるものがいようか。
内容はこうだった。
『危険にさらされている。ただし、闇の中ではない、水の中ではない。始めて奇異とし、やがて食む』
わけのわからない声だった。けれど、このように暗号めいた声は、昔はよく聞いたものだった。汪は、それと同じものと考え、なんども頭の中で復唱した。
「やがて食む……とは」
汪が食う対象だとでもいうのだろうか。汪は、久方振りに自分の本来の目的を思い出した。捕食者共を食む。それが汪の役目である。しかし、それをとうの昔に諦めていることも思い出した。
「始まる」
何が始まるというのだ。もう終わっていくだけに違いなのに。汪は口の中でそう唱えて、それから鞄を背負って、学校を出た。
多分ボーイズラブをやろうとしたんだけど、何もかも忘れてしまった。